陽のあたる路から

陽のあたる路をのんびり歩くような人生でありたい  陽路々

外来種について思ったこと

最近は天気の不安定な日が多いからなんだけど近所の道端を観察することが多かった。今日は台風が来ているから、近所でも出かけられないので何か書こうかなぁなんて気分になったワケで、日頃思っていたことを書いてみようと思う。

先ほどテレビで言っていた事なんだけど「外来種が悪いわけではない。持ち込んだ人間が悪いのだから、捕獲した外来種は殺さずに保護している」

多摩川外来種の生息調査をしている若い女性を紹介していた。親子2代で自然保護活動をしていたらしい。亡くなられたお父さんの自然保護活動を受け継いだとか。そのお父さんが始めたという「生き物ポスト」。飼えなくなったペットの小動物を対面では持ち込みにくいから無人ポストという形で受け付けたのだという。対面式ではイヤだから川や野に捨ててしまう人が多いという事への配慮だそうだ。それでも生き物を引き受けるという事は大変なことだし維持はさらに難しくなる。それでも「外来種には罪が無い、殺したりしたくない」という事だという。自然を愛するという事は大変な覚悟がいるが、在来種を守るためなら外来種を殺してもいいという事ではない。ここで思った事なのだが、生き物はたしかにそれで良いと思うが、植物はどうなんだろうという事。初夏の頃に道路わきなどに大繁殖してオレンジ色の花を一斉に咲かせたオオキンケイギク。僕が子供の頃は園芸店に行くとオオキンケイギクのタネを売られていた。コスモスに似た園芸種で育てやすく大きな花を沢山咲かせてくれる。そのキンケイギクが特定外来種に指定され盛んに駆除されているという。植物は動物と違い刈り取ったところで何も言わないし刈り取った人も心は痛まない。昔は花が綺麗だからと庭に植えたくせに、増えすぎるから、特定外来種だからと、駆除こそ正義とばかりに退治しているのは・・・。植物だって刈り取るという事は殺しているわけで、せめて駆除などと言う言葉は使わないでほしい。気持ちだけの問題でやってることは同じなんだけど、お肉を食べるときに命を頂くという心を忘れないのは大切な気がするのだ。外来種のほとんどは人間の勝手で持ち込まれたわけで、それでも花や生き物は一生懸命生きようとしているのだと思う。自然保護や在来種を守ることは大切なことだけど、外来種も大切な命なのだ。だからと言って良い方法が見つからないのだが、安易に生き物を飼ったり育てたりしないで責任を持つ、無知や無関心ではなく大事なことをちゃんと学んでいかないとダメなんだな。可哀そうだから可哀そうだからと綺麗ごとで済ませていては何も始まらないし大切な自然は失われていくばかりなんだ。

ここで思い出したことなんだけど、僕は子供の頃から園芸店は好きだったけど生花店は嫌いだった。子供だった僕には切り花って「晒し首」なのだ。母は生け花が好きだったが活けられた花は数日で枯れてしまう。捨てられた花がらに脇芽があると挿し木をして生かそうとした。そんな子供だったから花が咲いているとすぐ摘もうとする人の気持ちが解らない。「かわいい~」と言って摘み取る人間なんて最悪である。そうそう、「これ食べられるの」と聞いてくる神経も理解できない。花だけじゃなく釣りだってそうだ。生き物を獲物にしか見れない、食べ物にしか見れない。でもそれが普通なんだよね。